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談自創曲:孩子氣 (Childish)

想想,這首曲子其實和老爸有關。

老爸去年中風,雖然發現得暫無大礙,但語言區受損,剛開始恢復期時根本不說話(雖然他本來就話少)。一方面可能愛面子,一方面發現自己想說的事根本無法表述時,那種無奈又自責的心情,可想而知。

舉個例好了,他看到電視上的節目覺得起雞皮疙瘩,但說出來的卻是雞毛撢子。雖然之後可能會回想起他真正想要說的詞句,但在他直覺的當下就是無法把要說的事物,與正確的話語連結起來。而在中風剛發生後的幾週內,他其實連我的名字也講不出來。後來經過一連串復健,才比較能重新表達一些複雜的事情。

某方面來說不是很像學習中的孩子嗎?想著A卻說出B,這樣的狀況。

有時似乎是受了老爸的影響,覺得自己也變得有點語言困難了起來。明明心中想講的名詞是A,說出的話語卻是B,這種狀況雖然不算多,但也造成了某些困擾。雖然可能只是不自覺被感染的行為,並不代表自己真的有問題。

另外,雖然現在家人們已經能把糾正老爸的錯誤當成比較像是培養感情的娛樂了,但一開始發生時真是完全無法令人高興啊。或許這首曲子,正是那段時期產生的繁複感觸所沉澱出來的結果吧。

我們會漸漸淡忘些什麼,對吧?
那麼,
會再度想起些什麼嗎?


※ 1'48"後的類似機器人的說話聲,本意的確就是「某個人對你說話的聲音」。至於是誰,說了些什麼,當然留給聽者自行想像囉。
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談自創曲:多元宇宙論 (Multiverse)

音樂的體驗往往伴隨著經驗的累積。聽過越多的東西,你的觀感也會慢慢隨之改變。

經驗會影響你的判斷,如同你在現實與在夢境中能穿梭自如一般,經驗告訴我們何者是夢,何者不是。在如同河川一般不可逆的時間線上,也是經驗告訴我們前言後語,來拼湊與體驗出其它物種彼此間的存在。

一開始做這首曲子時,其實只有前半段。但之後我玩了一些遊戲,如Undertale;看了一部叫作「慧星經過那一晚」的電影,敘述平行世界之間人們不可思議的交集、影響、狀態與反應。於是我想把曲子分解,讓它本身既是一個世界,但同時延伸出第二個相像,但有微小不同的世界。

在這首曲子中如果細聽會感受到一些「切割」,我想用這種直接拼接的方式,讓聽的人意會到時間/空間跳躍。所以就拿前半段做好的音樂,當作後半段的素材重新稍微拼貼看看,但還是希望以聽來像是兩個意圖重覆的事件為主。像拼圖一樣。

音樂總有開頭與結束,當你聽完前半段後,便會意識到後半段與它的交集和不同之處。彼此可能互相影響或彼此取樣。記憶就像拼圖,或許另一個時空的你,擁有的卻是不同的碎片,也影響你拿到了不同的碎片。這首曲子的製作中有玩到這些過程,也希望讓聽的人發現這些意圖。

儘管上文看來都像辯解,但這也是身為作者的樂趣吧。



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自己喜歡的和弦組合

説到常用的和弦進行...不如從幾首自己的曲子來抓看看好了:

來世 (Eb大調) 副歌為 AbM7 > Bbsus4 Bb > Gm7 > Cm Eb7,也就是四級大七 > 五級掛四音 + 五級 > 三級小七 > 六級小 + 一級屬七。簡單來說是個4536的組成。


甘物 (F大調/D小調) 的副歌和絃組合我也愛用:
BbM7 > A7 > Dm7 > FM7 > Em7-5 > A7 on C# > Gm A7 > Dm 比較值得一提的是A7 on C#這個,因為主旋律很直接的一直 C D C D C 的彈,所以就會想把它掰彎,故從本來直接配的Am7,讓Am7中的第三音 C 改成 C#,讓它與主旋律的 C 構成大七度。
最近彈琴時也常用大七度算法,先做出一個洗腦有毒的主旋律後,因為不想改動它的某些音,又想要大七度的效果,所以就逆向把和絃中的音改成能與主旋律搭配構成大七度的音。 另外自己很喜歡順著升上去的和弦組成。例如從一級 → 一級升第五音(aug) → 一級加第六音→ 一級屬七 → 四級 → 四級升第五音(aug) → 四級加第六音→五級(屬七)
另外4736251這種和弦型我也很愛,用在小調上很不錯。從Fiona Apple身上也學到主歌可以常用一級→五級,但根音在小三度上 (例: C > Gm on Bb),可以營造一種自言自語的小文青感。XD


黑箱 (the black case) 的副歌也是常用款,其實我只是用一個Gm和弦 (組成音:G Bb D),然後把根音G一直往下移,就變成 Gm > Gb6 (Gb Bb D) > Fsus4+6 (F Bb D) > Edim7 (E Bb D) > EbM7 (Eb Bb D) > D (D F# A D),只有最後一個改了一下。 其實因為自己在作曲上是旋律優先取向,往往想改和絃而不想改旋律,所以很多時候「一小節一個或兩個和弦」的方式並不適用。最後就乾脆和弦跟著旋律的呼吸走,才不會讓和弦卡到主旋律的感覺。或是讓和弦用分散的方式呈現,而不是一次壓死。 自己因為是鍵盤手,所以很多思維也是在鍵盤上比較能夠想像,還請多包涵。 另外對於和絃的標記法若有疑問還請指正,自己有時也不太確定某些和絃的名稱。 ^^"…

致那些被捏造的我們,其三

音樂:KillerBlood
圖片:COLN
若說專輯「致那些被捏造的我們」本身是一幅正在完成的自我人生風景拼圖,那麼最後一首的附贈曲目「野史」,就是以第三人稱視野在看這幅拼圖的曲子了。

「野史」裡面蒐集了專輯裡前方十首的部份音樂要素,並將各自間值得玩味的部份加上一些改變與潤飾,盡力讓曲子裡的許多部份聽來熟悉,但彷彿已然遠去。

就音樂的作法上,是抽取前面十首曲子中自己喜愛的段落,拿回來加以改造與融合。在樂器的選用上可能大不相同,但旋律與節奏本身的樣貌則盡量保持一定程度的辨認度。當然也有曲子拿回來的部份已經被重製得味道很淡了,但它確實存在著。

會想用這種角度製作這首曲子,一方面是覺得回顧自己的東西很有趣,另一方面是覺得「若能把這些咀嚼過自己作品的想法反芻成另一首曲子,應該也很有趣吧?」抱著這種思維所誕生的曲子就是「野史」了。一開始本想叫它「歷史」,但基於附加曲目的屬性,反而不希望它太過厚重,最後幾經考慮便叫它野史,讓它像鄉野傳說般自述前面的十首曲目。




捏造された僕たちへ、その二

イラスト:COLN

中国語原文:致那些被捏造的我們,其二
訳者:Kinra


単純な歓びは楽しめるものだけど、その後ろに淋しい背景が存在すると、歓びの色は濁って見える。しかし「歓び」そのものから目を離さずに感情を込めて、狂ったように発掘し続けると、また違う感触になる。すべての事象は観測される前から存在していた。僕たちが断章取義をすればするほど、思い知ることになる。宇宙の一員として、自分が如何にちっぽけな存在か、少しくらいは理解するべきだ、と。 しかし僕たちは人間だから、人間の生命のペースと視点でこの宇宙全体を観測するのが、僕たちだけに許された楽しみだ。相手が常に沈黙している、にもかかわらず。僕はこないだ『風ノ旅ビト』というゲームに出会ったんだけど、その体験で僕の中に何か深く確立したものがある。生きていることは旅であって、最後の安らぎは帰郷である、と感じさせられたんです。そして最近ようやく気付き始めた。自分が経験した短い年月の中、一番忘れられないのは、様々な形の別れだったと。見慣れたものや見慣れていないものが、生命という舞台の奥に潜んで、無数の記念品のようなガラクタが散らばる薄暗い舞台裏の通路を通って、未知なる彼方へと歩いていくこと。 結局残ったものの中、誰の伝説が正史に、誰のが野史になるんだろう。僕は、どれも生命の素材だと思う。誰に拾われるか、誰に発想されるか、誰に再創作されるか、そう簡単に止められるものではない。現に僕たちも、自分の掻き集めてきた素材を愛でながら、自分の納得行くような形に仕上げているのではないか。 たとえば、納得の行く自分自身に。 これは実に奇妙な営みです。昔の自分を見ていると、情緒が湧いてくる。僕たちはいつも、自分を解釈する、もしくは別時空に分岐する自分ではなく今の自分を選んだことを解釈する暇がある。積み重ねた過去は読みきれない文書のように、部屋いっぱいに詰め込んである。気がついたら、呼吸している空気でさえ検査と準備が為されていた。僕たちは常に、前の瞬間が積み上げてくれた歴史の上に生きているんだ。 未来がどこまで長いかはまだ見えないけど、過去の方は不思議なほどに重いものだった。

捏造された僕たちへ、その一

アルバムカバー(仮) イラスト:COLN
中国語原文:致那些被捏造的我們,其一
訳者:Kinra


特に物語を難しくするつもりは無いんだけど、感じることができても自分じゃあ書けない、みたいなことはあるよね。 子供の頃は誰もかもデタラメに空想していたけど、大人になると、「現実」というものに触れて、解っていくものです。それはどんなに豊かな感性を以ってしても変えられない、揺るぎの無い中立的現実。そしてそういう現実もやがて星の巡りと共に変わっていくと理解した瞬間、この宇宙は僕たちの想像できる以上に摩訶不思議なものであると感じてしまう。『捏造された僕たちへ』は、より高い視点から自分自身、そして周りの状態を観照する試みです。僕は映画『インターステラー』みたいな見方が好きです。この宇宙というゲームの中で僕たちはまだ最初の村すら抜けていないかもしれないけれど、人間のちっぽけさと一種の必死さを、切実に感じることができると教えてくれるから。 宇宙と歴史から抜けられる人間はいない。 消えていく一瞬一瞬と共に、宇宙を一つの家族として見ようとしていけば、もしかすると人々はもっと遠くへ行けるようになるかもしれない。 かなり昔のSF漫画で、こんな話があった。人類という種が老年期に入って、地球周辺にある居住、到達や植民が可能な星が全部開発し尽くされ、故郷という概念がとっくに地球レベルを超えていた時代。不思議なことに、そんな「地球=故郷」という意識が希薄になっていたはずの環境なのに、数千年の発展と銀河植民の末、出生率は低下し、イノベーションは行き詰まり、人類は銀河旅行に興味を失くしてしまうのだった。結局人類は開発した惑星を捨て、次々と地球へと帰ることに。最後には、一人の老人だけが離れることを拒み、移住者たちの帰郷を眺めつつ、誰もいなくなった惑星に残り続けた。六千年前のとある曲を聴きながら・・・。 この話は大好きだった。そして意外にも、記憶の中にずっと残っていた。 人はささいなことでも覚えたりする、ということです。 僕に精一杯出来ることは、この世界を描写することだろう。そしてたまたま音楽が、僕の一番うまくやれることだったんだから。 (続く)